3月11日 東日本大震災が起こった日
東日本大震災で亡くなられた多くの命に まずは 黙祷 を捧げたいと思います。
津波で亡くなられた方、地震で亡くなられた方 そして様々な理由で彷徨い続けた 沢山の動物たち どうか安らかに。
あの時 私は、遠く 静岡から テレビを通して見ているものすべてが信じられなくて
この状況の中、私にはいったい何ができるのだろう。と震災が起きた日から自分に問いかけていた。
力不足で何もできな自分が不甲斐なくて、誰かが編集した震災の映像を集めたものを見ては泣いていた気がする。
泣いていたって何にもならないのにね。
東北の介護施設が大変なことになっていると聞いたのは、震災から一週間後
ただでさえ当時も介護現場というのは人手が不足して、東北も同じだったわけで
その時働いていた職場では、福島に人手を派遣する話が来ていたっけ。
でも、行きたいと願っていたのに、派遣の枠からは漏れてしまってというか
そのあとに、話すらなくなったと聞いた。
混乱している最中だから、今行くのは控えましょうという事だったのだと思います。
でも、結局そのあと介護士の派遣の話は この職場では二度と聞かなかった。
3月14日 福島第一原発の3号機が爆発したのを見たのは、職場のテレビだった。
福島第一原発が水素爆発しました。
仕事中に入居者の足を車椅子にのせたところで、テレビから聞こえたのを今も覚えている。
原発事故が起こってまもなく、動物たちが置き去りにされていることを知ったのもそんなに遅くはなかった。
毎日悲しんでばかりいても仕方がない、どうしたらあの場所から救えるのか救い出せるのか?
自分なりに考えてその時点で自分が出来ることが後方支援と情報拡散だった。
いち早く福島に駆けつけていた人たちを応援したい。動物たちを助けたい。助けて欲しい。
そんな思いで 自分管理のブログ に現地で活動している人の記事を綴り、
現場で起きていることを多くの方に知ってもらうことから私の動物たちのための行動はは始まった。
そのうちに、自分自身が行かなきゃならない。と思い立つのにはひと月以上の日数が必要だったが物事に遅いということは無かった。きっと今思えば、混乱期にこの地に踏み入れていたら、何をしていいかそれはそれで解らなかったはず。
私にとってはちょうど良い頃合だったのだろう。
2011年5月頭 福島県田村市大越町のシェルターを訪ねた。
シェルターの代表は ドリアンぶたまる氏
・・・大丈夫だろうか・・・この名前・・・(^_^;) 男の人だし・・・(^_^;)
ネットでこの数日前にたまたま見つけた団体だった。
あの頃持っていた携帯は、まだガラケーで、アナログなページに電話番号がのっていた。
実は、他の団体のシェルターにこの数時間前までは行こうと思っていたのだが
その団体は、福島県のシェルターは撤収して隣の県に移っていたので、
やはり福島県にある団体に行こうと思い立ち にゃんだーガード に連絡した。
隊長が電話に出てくれて、お待ちしています。どうぞお越し下さいと言ってくれた。
今思えば、これが 私とにゃんだーガードのはじまり であって。
隊長との はじめまして の時だった。あとから別の意味で知っている人だと気づくのだが(^_^;)
それから、もう 約8年も経つのだという。
震災から3年間は、静岡から福島に車で6時間かけて通っていた。
被災者さんからの保護依頼を請け負っていて、被災者の知り合いが身近にいた私は、警戒区域の立ち入り許可書を手に入れやすい立場にいた。遠く静岡から通っていたため、自分一人だけでは命をつなげることが出来ないため、
にゃんだーガードでつながった多くの仲間と連携し、当時 にゃんだーガード特餌隊というのが立ち上がって、効率的に、行ける人が行ける時に動物を救う仕組みも取られた。それが、にゃんだーガードが継続して 被災地で動物を救うことに繋がったのだと思う。
2013年の秋 原発避難区域の活動後に隊長に呼ばれ シェルターに入ってくれないかと言われた。
当時、ボランティアさんも大幅に減り始め お世話する人が劇的に減ってきた頃だった。
被災地に通った数年間、私は保護をしてほとんどの子はにゃんだーガードに預かって保護してもらっていた。
いつかは自分で引き取るなり、できる限りの責任は持ちたいと思っていたが、
それが今かとは決断することがこの時はまだ出来なかった。
それでも、数ヵ月悩んだ末、2014年1月シェルターに入り 年齢的にもスタッフの長として動物のお世話に当たることになった。
それからも早いもので、5年という歳月が過ぎたのだという。
5年と考えるとすごく長いのだが、シェルターに入って5年もいるとはとても思えないくらい、目の前のことで必死でいつの間にか、震災の年に34歳だった私が、42歳となっているという圧倒的な時間の速さだ。
にゃんだーガードで動物のお世話に明け暮れた日々は、それでも動物が好きな私にとって至福の時間であり仕事でもあった。
保護できた子を幸せへと導いてあげられた時の喜びは、
言葉では言い表せないくらいのやりがいと幸せな気持ちでいっぱいになる。
福島県の 県民 となり、ふくしまに骨を埋めるつもりで様々な取り組みも行い、多頭飼育現場やゴミ屋敷現場など、目を覆いたくなるような壮絶な現場も経験し、これでも数えられないくらいの頭数の殺処分を制限してきたという自負があり、被災者の方とのつながりを大事にし、 犬も猫も人 も幸せ になれることが第一の目標として考えて常に行動してきました。
だけれども、シェルター運営は、2016年頃からどんよりと曇り模様になっていきました。
そもそも、利益をうまない事業です。震災から何年も経ちあちこちで災害が起き、ふくしまが風化していくのも当たり前で、被災地の動物たちのことは忘れ去られていくと同時に、ご支援も大幅に減っていったと思います。
他にも理由はあったと思います。今思えば 反省するばかりです。
代表も、身銭を補填するばかりで、新しいことをはじめる決断が出来ずに数年が過ぎていきました。
ここまでに至った決定打はいくつかあるとは思いますが、スタッフのお給料が支払えない事になるまで、
そして なってからも代表は、まだまだどうにかしなくちゃと もがいてはいるものの次の一手を打てず動けずにいたのです。
今思い出してみると、きっと代表も精神的にかなりまいっていたのだと思います。
昨年、給与が未払になって一年以上が過ぎた頃に、私たちは スタッフ・ボランティアさんと立ち上がり
隊長に提案を持ちかけ少しでも事態を好転できるようにと努力しました。
閉鎖する決断をいつにするかはまだ考えず、まずはお金をつくるために動くように働きかけました。
最大で、私たちがここにい続けられて動物のお世話を継続出来る日を判断し、それを2019年3月としました。
そこで2018年10月辺りで、一度これからのにゃんだーガードの事を判断した上で、このあとどう進んでいくかを決めることになったのです。
結果、代表は4月以降のシェルター運営は困難と判断するに至ったのですが、
8年間福島に根ざしてやってきたことが無駄になってしまう。断腸の思いでの決断だと思います。
でも、世に言う多頭飼育崩壊になるわけには行きませんから。
命は待ってくれないもので、そのときを逃したら死んでしまう事に繋がることだって有り得ます。
でも、どこかで線引きをして、それを守ることは、今いる動物たちにとって必要なことです。
保護し続けるのも危険ですし、相談に乗り続けるのも危険です。
私たちは、その判断を誤って、今いる子達の行き先がないようなことだけは避けなければならなかった。
だから私は 代表が、存続できない という決断をするよりも前に動き始めました。
タイムリミットは、スタッフの間では、3月末と決めていましたし
それまでに移動完了を目指しているからです。
家を手に入れることも 本当に難しい問題でした。
でも、今までの私の人となりが導いてくれたのだと思っていますが
にゃんだーガードからの援助があったわけでもなく、自分自身の力で準備しました。
無事 動物を移動する シェルターの確保 が2月中旬にようやく整いました。
そして、代表の決断が決まり、移動という判断になった今、全力で、シェルター作りに奔走中です。
この新しいシェルターの活動日記と言いますが、
今までのシェルターを開設するまでの流れを
栖SUMIKA~人も動物も共に幸福な社会へ~こちらのアメブロに載せています。
※現在自分での投稿は多忙のため出来ておりません。ボラさんが書いてくれています。
このあと移動していく際の事も、出来る限りお伝えさせていただくようにします。
絶対に、シェルターから移動した子達が不幸になることはございませんので
どうか長きに渡り にゃんだーガードにご支援・ご協力頂いた皆様には ご理解頂けましたら幸いです。
新しい
保護動物シェルターは 栖(すみか) といいます。
現在は任意団体ですが 栖の会 を 今年二月に発足しました。
栖の会 とは、
代表理事 代田岳美 の 双葉郡富岡町に活動拠点をおく会です。
※只今、NPO法人申請手続き中で 早くて5月中 初夏辺りには法人の登記を目指しているところです。
先ほどのブログを読んで頂ければ、そのあたりのことや 内容もわかると思います。
会の名前の 栖 (すみか)とは 生き物の住む場所 のことを言います。
■栖の会 取り組み
会設立初年度における 基本の三本軸となる事業
〇犬猫の保護シェルター運営
〇介護・生活支援の事業
〇地域観光推進事業
ここまでの説明でご理解いただけたかと思いますが
このあとは、私は、 代表 本多明氏 と分かれて 新しい団体として 再出発 します。
イバラの道 蛇の道であり、 自分にこれほどの事が出来るのだろうかと今でも不安でいっぱいです。
でも、にゃんだーガードという土台でやっていくのが良いのか悪いのか、
私には 正直に言いますと それは 選択肢 ではありませんでした。
新しく立ち上げる団体は、私の将来の
夢 のはじまりであります。
それを、にゃんだーガードの活動と混同することは出来ませんでした。
それは、代表も理解してくれています。
新団体に、8年も経過したふくしまで いい風が吹くはずもなく
先行きは本当に厳しいとは思いますが、何事でも
続けられない人が失敗する のであって
やり続けることが成功への道 と言いますように。
諦めず前だけを向いて、たまに愚痴も言うかもだけど、泣き言だって言うかもだけど
それでも、まっとうに動物たちが幸せになる道だけを信じて自分の 夢 を一歩一歩進んでいきます。
着いてきてくださると言ってくださったボランティアの皆様
こんな私ではございますが厳しく指導していただけたら嬉しいです。
代表も、名古屋で動物病院やミニシェルター開設など、隊長の新事業も実を結びそうで
このあと 新生にゃんだーガード となるための行動をしています。
決して 仲違いになるわけではありませんが、代表も 福島にはなかなか関われないと思いますので、
隊長のファンの方は淋しいのではと思います。
私も、隊長に教わったことは本当に沢山あると思います。
そのひとつひとつを忘れずに、人のため 動物たちのため 精一杯精進していきたいと思っています。
私は震災の特集などのテレビを見れていませんが、 311 だけはきっと町も賑やかになることでしょう。
実は今これは 富岡町で書いています。
朝 町で用事があるためです。
8年前のあのころは、富岡町で住むなんて思ってもいなかったけど
世の中は本当にめまぐるしいくらい早く進んでいくのですね。
シェルターの周りは、新しい住民さんも含め 戻られている方が多い地域です。
夜の富岡町を車で走ると、帰宅している住民の少なさに悲しくはなりますが
私のような新しい住民も定着し、10年20年30年後と町が形を変えていく姿を見届けたい。
私として、会としての 富岡町との関わりを模索して、動物と人 お互いに幸福であるように
行動していければと思っております。
そんな、
栖の会 は まだ ひよっこの 会です。 応援よろしくお願いします!
さて、シェルターの動物たち、 移動目標は 3月末日 もうすぐそこです。
移動に関わる物資の搬送や、移動後 シェルターで現在使っているものを新しい場所で使えるように洗う作業
新しいシェルターでの猫部屋作りなど やることは満載です。
良かったら ボランティア の検討して頂けますとありがたいです。
にゃんだーガードでの後片付けも大変助かります。
また、富岡町のシェルターに直接来ることも可能です。
※東京からは常磐線で来ることが出来ます。 富岡駅 まで来てくださればお迎えに行きます。
駅からは車で8分ほどのところです。歩くと30分ですが、高低差がすごくあるので ちょっときついかもですがこれない場所ではありません。
まだまだ、最終移動しての 報告をお伝えさせて頂かねばと思っております。
皆様におかれましてはびっくりする内容だったかもしれませんが、見守っていてください。
長い文章をここまで読んで下さってありがとうございますm(_ _)m
2019年3月11日 代田岳美